非二元をめぐる対話

真夏の暑さに台風襲来。今年の夏はどんな天候になることやら・・・😩

「非二元をめぐる対話2」が5月下旬に刊行されました。シリーズ2冊目です。

象を見たことがない人に、言葉で象を理解してもらうのが難しいのと同じように、非二元を体感したことのない人に、言葉を通じて非二元を理解してもらうことは「至難の業」です。

今まで、何人もの「覚醒した人たち」の言葉をご紹介してきましたけれども、分かる人にはわかる、でも分からない人には取り付く島もない、という感じなのかもしれません。

「非二元をめぐる対話」(Ⅰ、Ⅱ)は、これらとはやや趣が異なり、「非二元がどんなものか」とか「非二元に至る方法」を説こうというものではありません。覚醒したと世間的に評価されている人たち(計26名)が、それぞれの目覚めに至った経緯、その後の人生などについてのリアルを語ったインタビューです。

たとえて言うなら、見たこともない『象』がどんなものかを説明するのではなく、「どのような経緯で『象』になったか(なってしまったか)」「象になってから何をしているか」をまとめた本です。

『象』に興味のある人はもちろん、『象』を見かけたような気がするけど本当に『象』だったのかよく分からない、という人や、『象』になる方法にはどんなものがあるのか知りたい、という人には、非常に参考になると思います😁

 

ところで、今日は、非二元界隈でよく聞くフレーズ、非二元に関する疑問について、解説してみたいと思います。まぁ、私ごときが何を言っても生半可で、おこがましさが目立つだけですが・・・😩

 

■「私」はいない

もっともよく耳にする基本フレーズですが、これがワカラナイ。だって、現実に、いまここに「私」が存在しているじゃないか!!

よくある「私はいない」の説明は、肉体から始まります。「あなた」が自分だと思っている身体は、数十兆個の細胞でできているが、それらは数カ月もすれば入れ替わってしまう、さらに分子レベル、元素レベルでみれば、もっと早く入れ替わっており、一定の定まった「自分」など、どこにも存在しない。

次に、「あなた」自身だと思っている社会的地位(出身、職業、評価など)や経済状況など、外部からの定義は、常に移り変わっていくものであって、確固たる「自分」など、どこにも存在しない。

また、習慣、考え方、価値観(好き嫌い、善悪の判断、執着)など、人間の内面に着目した分類、基準も、いつも変化しているので、同じ「自分」など、どこにも存在しない。

だから「実体のある確固たる私が存在するというのは幻想である」というような説明が多いのではないか、と思います。

しかし、殆どの方が納得できない理由は、いくら説明を聞いても「いまここに存在する私」という感覚をどうしても拭い去ることができないからではないか、と思います。肉体的な感覚器官を使っているかもしれないが、現にいまこの世界を認識しているではないか、それは「わたしが存在している」ことの証拠ではないのか!

仰るとおり、確かに「世界に気づいている」のは事実でしょう。でもそれは「あなた」という独立の存在が実存している証拠にはなりません。世界を認識しているのは「私」ではないかもしれない😲 ということなんです。

ラマナ・マハルシの「私は誰か」という問いかけは、まさにこの点をついているのです。

存在していると思っている「私」には実体がなく、「私という考え」「私という概念」だけがある。つまり「私」という存在は、「自我の思考」のなかにだけ存在する想像上の産物である!

では世界を認識しているのは誰か?

言わぬが花ですが、言葉にするなら「宇宙」「すべて」「ワンネス」「神」と呼ばれるものでしょうか。宇宙自身が「あなたを通して」世界を認識している・・・・・・

 

■自由意思はない

殆どの人は、自分に「自由意思」がある、と思っています。先日ご紹介した瀬知洋司さんの「小さいおじさん」も、自由意思はもちろんある、と言い切っていました。

ですが、非二元を知っている人は「自由意思はない」といいます。なぜなら、自由な意思を持つ「私」がそもそも存在しないから。

これで終りなんですが、木で鼻を括るような言い方ですので、別の方法で少し説明してみます。

まず、仮に「自分の意思」が存在したとして、それを本当に自由に扱えるのか? よく例に挙げられる実験があります。もし、自分の思考や意思を自由にコントロールできるなら、嫌なことを一日中、一切考えない、ということができるか。1時間、何も考えない、ということができるか。

瞑想に取り組んだ経験があるなら、簡単に分かると思いますが、もしそんなことが可能なら、あなたは既に「聖人」や「覚醒者」です😅

つまりどんなに強固な意思を持とうが、自分の意思とは関係なく、勝手にいろいろな考え、過去の記憶、未来への不安や期待が湧き上がってくる。殆どの人のあたまは、それらも含めた雑念で埋め尽くされている、といっても過言ではありません。でも、それって「自分の自由な考え」なのでしょうか?

次に、あなたの今までの人生、今のあなたの置かれた状況は、自分の自由意思による選択の結果なのでしょうか。過去の「成功」や「失敗」も、あなた自身の自由意思を行使した結果なのでしょうか?

あなたの生育環境、家族関係、経済状況、外見、能力など、どれをとっても、あなたの意思とは関係なく与えられたものではないですか?

自分の自由意思だけでその結果が生まれた、と確信できるものがどれほどあるのでしょう? たまたま誰かが助けてくれた、運悪く失敗してしまった、偶然の人との出会い、事故に巻き込まれたなど、殆どが周囲の状況によって左右されてきたのではありませんか?

つまり自由意思があろうがなかろうが、それとは無関係に人生が展開している😲

もっと小さい日常のことで例を挙げることができます。今日の夕食はカレーにしよう、と思います。でも何故それを思いついたのですか。ひょっとすると、お昼に出かけたとき、カレーの匂いが漂ってきたから、それとも、おやつ時に昔食べた美味しいカレーのことを思い出したから・・・。匂いをかいだのも、思い出したのも、あなたが意図して選択したのものではありません。いろいろな状況が積み重なって、その「決断」が行われたように「見かけ上」思えるだけ。

 

それでも、あなたは自由意思があるはずだと思いたい。なぜだか分かりますか?

それは、自由意思がないと分かると、「自分」が存在する意味がない、「自我」の出る幕がなくなるからなんです。

我々は与えられたシナリオに沿ってただ人生を体験しているだけで、自由意思などない、主体的な判断もない、なんて「自我のプライド」が許さないんです。

結局、「悟りたい」「目覚めたい」と思っている自分が、悟りを一番邪魔している。このカラクリが分かると、かなり楽になるんですけどね・・・・・・

 

■人生に意味はない

人生に何の意味もないなんて、あり得ない! そりゃあ自慢できることばかりじゃないし、失敗もたくさんある。他人を傷つけてしまったことも。でも、他人からどう評価されようが、自分の人生は、一生懸命生きてきた証なんだから、絶対何かの意味があるはずだし、自分の成長に繋がっているはずだ、と自我が叫びます😁

でも先ほどからご説明したように、「私はいない」し、「自由意思もない」としたら、「あなたの人生」にはどういう意味があるのでしょう?

自我は、そんなはずはない、と頑なに否定しますが、少し自信が揺らぎ始めました。「そんなこと・・・もし、意味がないなら、何のために生きてるんだ・・・?」

朗報があります。人生は、あなたという個人ではなく、宇宙全体が宇宙を生きるために存在しています。だから、「あなた」は無理して頑張らなくていい、流れに沿って楽に生きていい。どのみち、あなたの自由にはならない人生ですから・・・・・・

ここでラマナ・マハルシの解説動画をみると、少し納得感があるかもしれません↓

【有料級】私=意識そのもの──“神の働き”だけが世界を動かしている/ラマナ・マハルシ/真我/覚醒/私は誰か?
❤️ ラマナ・マハルシは、インドで最も尊敬される覚醒者のひとりです。彼は外的な修行よりも、内なる沈黙と自己への気づきを重視し、多くの求道者...

 

■なぜ世界はこんなにも「悲惨」なのか?

今の世界がこんなにも悲惨なのに、「あるがまま」とか適当なことを言って、非二元はこの状況を肯定しているのか?

ときどき耳にする「非二元への批判」です。

一般的なスピリチュアルの説明は、宇宙にはいくつもの階層があって、3次元地球もその一つであるが、魂が進化すればより良い世界に移行できる、とか、いまの人類は地球学校で経験を積んでいる最中だとか、過去世の因果(輪廻転生)の結果、このような世界に生まれたのだ、とか。まさに「講談師、見てきたような嘘を言い」ですね(あくまでも個人の感想です😁)。

従来型の宗教と同じで、今の世界は悲惨だけれども、努力すれば(帰依すれば)より良い別の世界に生まれることができる、という物語です。

科学技術信仰も同じで、今の世界は不便なので、もっと便利な世界に変えたい、物質的に豊かな世界に移行したい、すべての人類が幸せな社会を構築したい、という一種のストーリー宗教といえるでしょう。

かくいう私も、このような話をすべて信じ込んでいました。

しかし、そもそも「この世界は悲惨」なんでしょうか。確かに、いつもどこかで戦争があり、大きな格差が存在し、弱肉強食の社会だし、分断された社会でもある。

その状況は事実なんでしょうが、それが「悲惨だ」とか、「こうあるべきではない」「もっと良い世界があるはずだ」というのは、一種の価値判断なのではないでしょうか。

皆さん、動物の世界を観察したとき、どう思われます?

日常的に個体が生き永らえるための戦いがあり、地域や種によっては生きざまに大きな格差があり、同じ種の群れ同士でも争いが絶えません。もちろんライオンの家族を観察してシンパシーを感じたり、種を超えた共生が実現している例を見つけることはできますが、全体としては「弱肉強食」のヒエラルキー的食物連鎖が存在しています。

これは「悲惨な世界」なのでしょうか?

大半の人は、自然の摂理であって、人間が評価するような話ではない、と思うでしょう。仮に人間独自の価値観で、仕組みの一部を操作しようとすれば、たちまちバランスが崩れて、思わぬ結果を招いてしまいます。

では、人間の世界だけが「悲惨」なのでしょうか。

結局のところ、人間も地球に住む「動物」の一種だと思えば、何でもないことなんです。人間が、自分たち自身で想像するほど「特別な種」ではない、とすれば、今の状況も「悲惨」ではなく、「当たり前」なんじゃないでしょうか。

むしろ、自我が発達したために、「自分たちは特別な存在なんだから、もっと素晴らしい世界を構築できるはずだ」という思い込みが強くなって、「さらに状況を悪化させている」と言えなくもありません。それぞれが思い描く素晴らしい世界の定義が違ったり、構築の方法論が違ったり、優先順位が違ったりして、争いが劇的に増えるからです。

まぁしかし、これらも含めて、宇宙自身が宇宙を生きていることに変わりはありませんし、「自然の摂理」ならぬ「宇宙の摂理」からいえば、すべて織り込み済みで、地球の「いま」が展開し続けている、というわけです。

自らの人生を思うように操作したいと思ってもできないのと同じように、人類の行く末も人間の努力や選択で操作することはできません・・・・・・

 

くだらない話にお付き合い下さいまして、ありがとうございました😍

 

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