非二元への道のり

寒い日が続きます。雪の多い日本海側は大変ですね。

「『わたし』がいなくなる」という、さなぎの殻が抜け落ちるような期間が過ぎて、再び3次元的、二元的な自己が戻ってきました。日常生活には、二元性がある方が何かと便利です😁

「わたし」が解体され、剥がれ落ちていく過程では、かなりの混乱もあり、ブログへの投稿では、一部、筆が滑りました。誤解を生じるような表現も残っていますが、今後の投稿でボチボチ修正します。。。

「病の急性期」ともいえるプロセスのなかでは、「新しい景色」への期待感のようなものが微かにあったのですが、一段落した今は、以前の生活と何ら変わりがないように思えます。人格が高尚になったとか、後光が差す、なんてことは全くなく、腹も減れば、眠たくもなる、思考や感情、雑念が湧き起こるのも、以前と変わりません。

と言いながら、「何か」が変わっているんですよね。3次元的な体験に意味付けしたり、評価したりする「自分」がなくなって、すべてが通り抜けていく感じ。こだわりがなく、義務感がない、過去への囚われも、未来についての期待もないのですが、虚無感とは異なります。「すべては、ただそのように存在している」というある種の安心感。言葉にするのはなかなか難しいと思ったのですが、この感覚に近い動画を見つけました↓

目覚めても人生は変わらない?|覚醒のあと、何が残るのか【スティーブ・テイラー】
目覚めた瞬間から、人生が一変する。そんなふうに、思い込んではいないだろうか。心理学者のスティーブ・テイラーは、覚醒とは人生を根本から変える出来事ではなく、人生の「中心」にあった重たい感覚が、静かに薄まっていくことだと語っている。仕事もする。...

便利な世の中になったものですが、意外に多くの方が同じような体験をされているのかもしれません😅

 

■非二元へのステップ

前回の投稿では「夢からの覚醒」に譬えて、「現実」が幻想だと分かったとしても、本当に夢から醒めるのは、夢のなかの登場人物ではなく、別の次元にある本人(全体性?本体意識?)だ、だから夢のなかで足掻いても仕方がない、という趣旨の話をしました。

しかし、少し冷静になって振り返ってみると、私自身の短いような長いような人生経験においても、「非二元に至る道筋」があるように思えます。つまり「夢のなかでみる景色」に順序というか段階のようなものがありそうだ、ということです。

生粋の非二元論者に言わせれば、「非二元へのステップなどない。二元的であるか、そうでないか、だけだ」と一刀両断されそうですし、すべての人がこのステップ通りに進むわけではありません。それでも、皆さんが、非二元への道程のどのあたりにいらっしゃるか、見当をつけられるかもしれないと思って、参考までに書いてみます。

 

1) 自分は肉体ではない?

この世に生まれた殆どの人は、自分=肉体と思っておられるのではないでしょうか。この常識、というか固定観念を打ち破るのが第一歩です。

切っ掛けは人それぞれでしょう。近親者が亡くなったとき、何故かそれが分かったとか、夢枕に立った、なんてことかもしれないし、いきなり体外離脱や異次元を体験をするかもしれません。臨死体験の本を読んだり、輪廻転生の考え方に触れることかもしれません。

切っ掛けがなんであれ、もし自分が肉体でない、とすれば、「じゃぁ自分とは何なんだ」という問いが内面で発せられる。ここが多くの場合のスタート地点です。

 

2) 自分とは何か?

自分とは何かを探求する過程では、「あーでもない、こーでもない」という禅問答が延々と続きます。分かったと思っても、いや違った、という繰り返しなんです。一生をこれで終わることも珍しくありません

宗教にハマったり、グルに心酔したり、予知・予言や占いに傾倒したり、瞑想が絶対だと思ったり。スピリチュアル世界の探求も、そのひとつです。この段階では、異次元、異世界の体験をしたり、光を見たり感じたり、ということもよく起こります。殆どの臨死体験(3次元的な自己が維持されているケース;擬人的な神に出会った、亡くなった人と再会した等)もこの範疇に入ります。

何かを確立できたと思ったら、あっという間にひっくり返される。こんなことをいつまで繰り返すのか、と嫌になってしまいます。つまり「自己」は安定的でしがみつける「何か」を、「自分の外側」に一生懸命探すのですが、何をやっても、どこまで行って見つかりません。

おそらく、非常に長くて、もどかしい時期が続きます。

 

3) 境界が曖昧になる

そのうち、何が自分で何が自分でないのか、自体が曖昧になり、分からなくなってきます。探求自体に嫌気が差すかもしれません。「賽の河原の石積みから解放して欲しい」と切に願うかもしれません。

このあたりで、いわゆる「ワンネス体験」が起こることが多いようです。つまり、「なんとなく自分」というものはありながらも、自分と自分以外のものが実は一体なんだ、周囲から独立した自分はない、という感覚です。

体験が先行する場合もあれば、肚にストンと落ちただけで体験なんて何も起こらない、ということもあります。体験の内容も様々です。劇的な「無条件の愛」を経験することもあれば、ただ境界が消えて一種の無重力状態になるかもしれません。

人はみなそれぞれの道を歩んでいますので、個別の事象を他と比べて悩む必要はありません。

この段階と、次の段階が同時に起こることもあります。

 

4) 自分が消える

「自分と自分以外の境界が消えて一体化する」を越えて、そもそも「自分」という存在自体が消える、別の言い方をすれば、「自分」は思考が作り上げていた幻想に過ぎないと気づく、という段階です。

この段階の特徴は、「頭では分かる」ことは意味をなさない、というところです。「自分」は思考が作り上げた幻想であると思考で理解しても、それ自体が一種の幻想だ、ということなんですね。

だから、この状態を言葉(つまり思考で理解できる方法)では説明できません。禅でいう「不立文字」です。

やや脱線しますが、仏教の本質では、3次元的な自我が消えることを「成仏」と称していますけれども、この段階です。

しかし、まだ「自己的な視点」は残っています。見かけ上であっても、3次元に存在し続けるためには、どうしてもエネルギー的な視点(エネルギー的な絆帯)を残さざるを得ません。

ですので、どんな非二元論者であろうが、3次元に存在を維持する限り、ここから先へは進めません。(つまり見かけ上のわたしも😲)

 

5) 涅槃

もちろん、この先にも段階があります。多次元的なエネルギー世界での自己が消えて全体性と融和する段階です(その途中にも段階はありそうですが)。仏教の本質で、涅槃と称しています。

しかし、エネルギー的な世界においては、もともと自分と他者という切り分けはありません。すべてが全体性のなかにあるからです。(個もありながら全体性がある;全体性のなかに個がある)

そのなかで自己が消えるとは何を意味するのか、は実際になってみないと分からないわけですが、すべての大元である「無であってすべてである」「存在であり同時に非存在でもある」状態に溶け込んでしまう、ということではないか、と推察しています。

仏教の本質がそこまで語っていたのだとしたら、先人達はやはり凄いですね。

 

★おまけ

昨日、5年ぶりに坂田由利子さんにオーラを観てもらいました。相変わらずの的確な見立てでしたが、特徴的なことを何点かシェアします。

・そもそも、私(坂田)が観る必要がないですね。私の言うことは、すべて分かっている状態でしょうから。

・人のオーラは、強弱はあるけれども、宇宙全体に拡がっている。ただ、通常は、「ここまでが自分」という範囲が明確なのだが、あなた(ガイアの旅人)の場合、それがなくなって宇宙全体に溶け込んでいる。

・背景にある暗黒に見える部分(いわゆる「空」)も、その全体と重なっている。

・これとは別個に3次元にいる「あなた」があるが、この存在を100歳でも生きていようと思えば元気でいられるし、それ以前に消えようと思えばそうなる。

 

さて、いつまで生きていましょうか?

 

 

 

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