今年も残すところあと僅か。前回の投稿で一年を締め括ったつもりだったのですが、ちょっとした変化があったのでご報告😁
■気づきが現れ、探求が終わりました。
言葉にするとこれだけなのですが、何のことかわからないと思いますので、少し具体的に😅
初めてのスピリチュアルな体験(超常体験)から50年、クリシュナムルティの「自我の終焉」(自己の解放)を読んでから30年、自分とは何か、世界、宇宙とは何か、と探求を重ねてきました。雑多な本を読み、セミナーに参加し、迷走だらけの瞑想もやってみました。たまに経験する一時的な超常体験の向こうに、「完全な覚醒」や「完全な悟り」が存在して、「自分」もそれに辿り着きたいと追い求めてきました。
しかし、12月中旬のある日の夜中に(肉体的に)目が覚めて、気づきが現れ、すべてが終わりました。
「自分」という存在そのものが全くの幻想であったこと、他者や他の存在という独立した「個」(全体から分離したもの;二元性)は、すべて「自分という幻想」のなかにしか存在していなかった、という気づき。「自分が物語として認識していた二元的な世界」が土台から崩壊してしまいました。
「自分」はそもそも存在しない、「自分」が認識する世界も宇宙も幻想に過ぎない。すべては「全体」の表現であり、いのちやエネルギーとして現れたり消えたりしているだけなんだ!
「非二元」とはこういうことだったんだ、とようやく腑に落ちました。言葉にすると、何かもの凄いことが起こったのかのように誤解されそうですが、実に静かな、何気ない日常生活の延長上にあるような「えっ? たったそれだけのこと?」という呆気ない幕切れ、気づきでした。まさにコロンブスの卵です。ただ、その気づきがすべての「自分」を洗い流してしまいました。
■気づきに至る振り返り
思い返してみると、2020年7月のセミナー中でのワンネス体験は、毛布をかぶって「自分」という夢をみていた状態から、いきなり毛布を引っぺがされて「もう朝だから起きなさい」といわれたようなものでした。
しかしその体験(すべてと一体であり至福感に包まれる)は一瞬(数時間)で終りました。再び毛布をかぶって「自分という深い眠り」を貪り、執念深く「自分の探求」を続けたのです。
次の目覚ましは2025年1月。「自分がいない」という感覚(気づき)が一瞬現れたのですが、またもやすぐに「自分という夢」に舞い戻ってしまいました。
そして今回。確実に目は覚めて再び眠ることはなさそうですが、毛布から顔を出したばかりの寝ぼけまなこなので、気づきにはさらにこの先があると感じています。
「それなら、まだ探求が終わってないんじゃないの?」と思われるかもしれませんが、そもそも探求するという「自分」が存在しません。なので、もう後戻りして「探求」が起こることはありません。ただ新たな気づき(全体性)が現れるかもしれない、というだけのことで、それをコントロールしたり、それに向かって努力する主体(自分)はないのです(禅問答のようですね😩)。
よくある譬えです恐縮ですが、川に流されているだけなのに、一生懸命漕いでいる自分が存在する、という幻想から解放された、ということなんですね。依然として流され続けているので、新たな景色も現れる、ということなんです😁
■非二元に至る道(方法)はあるのか?
ひと昔前に比べて、いま非二元の本はたくさん出ていますし、SNSでは「非二元」の解説もあり、なかには高額なセミナーもあるらしいです(怪しさは引き寄せと同じ)。
しかし残念ながら、非二元に至ったとする人たちの殆どが共通して言うのは、「これをやれば非二元が理解できる」とか、「このメソッドで全体性の気づきが現れる」という確実な方法論は何もない、ということです。現に、それまでスピリチュアルに何の興味もなく、探求に無縁の方々でも、いきなり非二元に至る人たちがたくさん存在するそうです。
しかし、探求途上にある人や、人生に不安、欠乏、恐れ、緊張を感じる人たちに、「そのなにかに触れ、理解したい」という欲求が存在する、ということも事実でしょう。たまたま(シンクロ?)、ナチュラルスピリットから「非二元をめぐる対話Ⅰ」という書籍が発刊されました(2025年12月21日初版)。

ロンドンのコンシャスTVというチャネルに登場した人たちのなかから、有名なトニー・パーソンズなど、非二元に至ったらしい10名とのインタビューが掲載されています。10名のなかには、気づきの現われに違いがあったり、分かりにくい表現の人もいますが、元々言葉で解説することが難しい領域なので、仕方がないのかもしれません。
どんなインタビューなのか知りたいという方は、コンシャスTVのyoutubeをご覧ください。ムアジャーニ、アジャシャンティなど700本以上の番組がアップされています↓
なお、トニー・パーソンズについては、このインタビューよりも「オープン・シークレット」の方が、非二元、全体性とは何か、について、明確に語っているように思います。

(本の帯には「ほとばしる悟りへの感興」と書いてありますが、本文では「悟りや悟る者はない」と書かれています(笑))
もちろん、以前にご紹介したラマナ・マハルシ、ニサルガダッタ、アジャシャンティなども、表現は違えど、結局、同じものを指しています。
このブログのタイトル「スピリチュアル世界の探訪」も、そろそろ看板を下ろすか、書き換えなくてはならないかも😅
来年は丙午ですが、皆さま、良い年をお迎えください!!

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