非二元への存在しない扉

新年にあわせて、ブログのタイトル、フロントページ、プロフィールを変更しました。よろしければ今年もお付き合いください😁

いままでは「精神世界の探求」をテーマに、皆さんの興味を惹きそうなSNS情報や新たな気づきに繋がるような話題、本の紹介などを行ってきたのですが、ブログに投稿したとおり、昨年12月中旬に大きな気づきが現れました。

今後は「非二元(ノンデュアリティ)」に焦点を当てて書いていきたいと思っています。ツマラナイ、理解できない、期待外れ、と思われる方には、申し訳ありません😞

といっても、非二元の気づきが現れる決まったメソッドなど存在しないのですが、長い間、出口のない精神世界(二元性の世界)の探求を続けてきた「わたしの経験」が、同じように探求を続ける方々への参考になれば、と思っています。

新しいブログのテーマであり、今日の表題でもある「非二元への存在しない扉」ですが、精神世界のどこかに「扉」があって、それを開けば「完全な覚醒」に辿り着ける、というある種の典型的な誤解を表しています😅

 

■夢のたとえ話(非二元の目覚め)

皆さんは覚えていなくても、人間は毎晩夢を見ています。そのいくつかは、朝起きたときに覚えているでしょう。また、夢のなかには、その最中に自分が夢を見ていると認識できるものがあり、明晰夢と呼ばれたりします。明晰夢のなかには、稀にですが、夢のなかで自分の意思によって行動していると思えるものもあるようです。

しかし、夢の大きな特徴は「どんな夢を見るかを予め決めることはできない」ということです。また、夢はいつ始まったか、どのように終まったかも曖昧で、夢の途中でも、それまでのストーリーと無関係に、急に場面が変わったりします。

明晰夢においても、夢であることは認識できても、ストーリーをコントロールすることはできませんし、ましてや「夢から醒める」ことはできません。だって、「夢から醒める」のは寝ている本人であって、夢のなかの自分ではないからです。

いや、私は凄く怖い夢を見たので目が醒めて、汗びっしょりになっていた、という方がいらっしゃるかもしれません。確かに夢で恐怖を感じたのは「夢のなかの事実」でしょうし、その恐怖が脳神経に刺激を与えた結果、目が醒めたのかもしれません。でも目が醒めたのは、寝ていた私であって、「恐怖を感じた夢のなかの自分」ではありません。

この夢の話は、私たちが「現実」と呼ぶ3次元世界と非二元(全体性)の関係をとてもよく象徴していると思います。

まず、人間のエゴは、いつも「快」を求め「不快」を避けたいという性質があります。その結果、私たちは「快」を求めて「人生の現実」を何とかコントロールしようと一生懸命もがきます。しかし、うまくいくか、いかないか、は神のみぞ知るです。

今まで順調だった人生が、突然の病気、怪我、事故、災害、親しい人との離別、失職、経済的な損失などで暗転することもしばしばです。一方で、新しい地位を得た、大金を獲得した、恋人ができた、家族が増えた、家や車を買ったなど、欲しいものを手に入れることで、幸せを感じることがあるかもしれません。

しかし一時的な幸福感は、すぐに日常生活の忙しさに埋没してしまい、何かが足りない、何とかしなきゃ、あんな風になりたい、こんな人生を歩みたい、と休まることがありません。

そんな満足感に乏しい、忙殺された人生に疑問を感じて、何でこんな人生を歩んでいるんだと「精神世界の探求」にハマる人も出てきます。日常生活では感じられない、ある種の高揚感、開放感を感じることがあり、瞑想など何かのきっかけで非日常的なイベントを体験できたりもします。

そのうち「3次元の現実は幻想に過ぎない」という言葉を耳にして、「確かにそうだ、わたしも完全に覚醒すれば、幻想も悩みも消えて、真のわたしが姿を現すに違いない」ともがき続けます。SNSでは、いつから変わる、とか、未来はこうなる、という根拠不明の情報で溢れかえっていて、「波動が変わってアセンションすると覚醒できるかも」と期待しますが、現実は一向に変わる気配がありません。

この状況は、明晰夢と酷似しています。これは夢だ、と気づいていながら、夢から覚めることができないのです。どんなに恐ろしくても、どんなに苦しくても、どんなに悲しくても。

その根本原因は、目覚めるのは「あなた」ではないからです。

では何が目覚めるのか? それは「全体性」「すべて」「大いなるもの」「ワンネス」「空」などと呼ばれるものですが、実際のところ言葉では表現できませんし、それが現れるまで「わたし」は理解することも体験することもできません。

最悪なのは、それが現れたとき、結局、わたしは何も経験することがありません。何故なら、「わたし」が消えてしまうからです。夢から醒めると明晰夢のなかの自分が消えてしまうように・・・

じゃ、どうやって目覚めろっていうの? と疑問に思いますよね。おっしゃる通り、これだ!という方法はありません😩 どんなに厳しい修業をしようが、長いあいだ瞑想しようが、関係ありません。逆に、探求など何もしていなくても、飲んだくれていても、目覚めることがあります。あなたが何をしても関係ない、ある意味、身も蓋もないんです。何しろ目覚めるのは「あなた」ではないからです。

しかし、ハッキリ言いきれないのですが、おそらく、ひょっとすると、たぶん非二元を身近に感じて「自分という縛り」を緩め、「ある種の固定観念」を手放すことが少しは近道になるかもしれないな、という気がしています。

ということで、少しずつその材料を提供していこうと思います。

 

★「あなたはわたし、わたしはあなた」という「非二元あるある」

非二元を語るときに、たまに聞かれるのが、このフレーズです。でもハッキリ言いますけど、これは完全な誤解です。「あなた」も「わたし」も存在していません!

 

★「人は出産のときにすべてを忘れて生まれてくる」という信念

精神世界を探求している人の多くが、このような考えをお持ちでしょう。ですが、これも誤解といって差し支えありません。

人が赤ん坊として生まれたとき、その意識は全体性のなかに息づいています。つまり「すべてを知っている」のです。見かけ上、赤ん坊は何も知らないように見えますが。

しかし、成長するにつれ、肉体を一つの塊として「自己」として扱うことが訓練されていき、全体性は後退していきます。

人によって多少時期が前後するかもしれませんが、小学生や中学生になる頃までには自己が確立して、全体性からの分離、すなわち「わたしとわたし以外」という二元性が完成します。

つまり「人はすべてを忘れて生まれてくる」のではなく、「『自分という幻想が確立することによって、すべてを忘れてしまう」のです。

 

★「自分が生まれ変わる(輪廻転生)」という信念

これも精神世界あるある、ですよね。臨死体験という幻想も、この信念を助長します。(ついこの間まで、あなたは臨死体験を重視していたじゃないか、というご批判は甘受します😞)

エゴ、つまり自己という幻想にとって、一番恐ろしいのは、自分が消滅することです。ところが、人間の肉体的な死は、現代でこそ身近ではなくなりましたが、その昔は日常茶飯事でした。

しかし、「肉体の死=自己の消滅」と認めたくないエゴは、肉体は滅んでも自分は消滅しない、という新たな幻想を作り上げました。これが死後の世界であり、輪廻転生です。幻想が幻想を生むんですね😅

しかし、実際に肉体の死のあとに訪れるのは、「わたし」という幻想の消滅であり、全体性への回帰です。人によっては、肉体が滅びる前に「わたし」が消えてしまいます。つまり遅かれ早かれ、自分は消え、全体性が現れるのです。

「自分」は幻想であり、生まれ変わることはありません。そして、幻想である自分の過去世も未来世も幻想、つまり輪廻転生はありません。

 

えっ!? じゃぁ、やっぱり死んだら全部終わりっていうこと?

いえ、そうではありません。「自分」という幻想が生まれて死んだように見えるだけで、すべては生まれることもなく、死ぬこともありません

 

こういう禅問答のような話が非二元には多いのですが、別に意地悪をしているわけではありません。まぁ語彙が乏しいのかもしれませんが、そうとしか言いようがないのです😩

 

■お薦めの本

「バタ足ノンデュアリティ」著者の金森将さんが、「ただそうあるだけ」(ナチュラルスピリット2024.11.11初版)という自伝的小説風の本を出しています。

重い鬱に病んだ「私」が、空想上の「彼」との対話を通して、非二元とは何か、に気づいていくというお話です。

人生の生きづらさ、苦しみを何とかしたい、人生の意味が分からない、「非二元」を理解したいのだけれど糸口がない、というような方にも、「私」が少しづつ理解を深めてプロセスに、自分を重ね合わせることができるので、分かりやすいのかな、と思います。

 

非二元を称する人たちは数多いのですが、「ナンチャッテ非二元」の方もたくさんいらっしゃいます。ですが、金森さんは、「なんちゃって」ではない方だと思います。ご参考まで。

 

次回の投稿は2月ぐらいかなぁ~😁

 

 

 

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